
大企業を中心に、業績が悪化していないにもかかわらず、早期退職や希望退職を募集する動きが広がっています。いわゆる「黒字リストラ」です。これまでリストラといえば、赤字、業績不振、不採算部門の整理といった「守りの人員削減」という印象が強いものでした。しかし現在起きているのは、単に会社が苦しいから人を減らすという話ではありません。むしろ、業績が比較的堅調なうちに、将来の成長分野へ経営資源を移すため、あるいはAI・DXを前提とした新しい業務構造へ変えるために、人員構成そのものを見直す動きです。東京商工リサーチによると、2025年度に早期・希望退職募集が判明した上場企業は46社、募集人数は2万781人で、前年度の8,326人から約2.5倍に増加しました。さらに、実施企業46社のうち直近決算で黒字だった企業は32社、黒字企業の募集人数は1万6,908人で全体の8割を超えています。つまり、現在の人員整理は「赤字だからやむを得ず削る」ものから、「黒字のうちに将来のために組み替える」ものへ変化しているのです。この流れは、大企業だけの話ではありません。中小企業にとっても、採用難、賃上げ、AI活用、管理職不足、若手定着の問題はすでに現実の経営課題です。むしろ中小企業の場合、1人の優秀な社員が辞めるだけで、営業、現場、経理、労務、採用、DXなどの機能が一気に弱くなることがあります。だからこそ、黒字リストラのニュースを単なる大企業の人員削減として見るのではなく、「人手不足の時代に、会社が本当に残ってほしい人をどう守るか」という労務管理の問題として考える必要があります。
業績がいいのに削減する企業は、何を変えようとしているのか
黒字リストラを理解するうえで重要なのは、企業が単純に「人が多すぎる」と考えているわけではないという点です。むしろ多くの企業は、人手不足に悩みながら、同時に「今の人員構成のままでは将来勝てない」という別の問題にも直面しています。たとえば、パナソニックHDは、2024年度決算の発表とあわせて、1万人規模の人員適正化を含むグループ経営改革を説明しました。同社は、足元の業績だけを見れば極端に悪いわけではないものの、同業他社と比較した収益性や、過去30年の成長停滞を問題として挙げています。特に、販売・間接部門を中心とした労働生産性や、20年以上前の業務プロセスが残っていることを課題としており、人員削減そのものよりも、固定費構造と仕事の進め方を変えることが改革の中心にあります。三菱電機の事例も象徴的です。同社は「ネクストステージ支援制度特別措置」の結果として、連結合計で約4,700人、当社単独で2,378人の応募があったと公表しました。対象者は2026年3月15日時点で満53歳以上かつ勤続3年以上の正社員および定年後再雇用者で、通常の退職金に加えて特別加算を支給し、希望者には再就職支援も提供する内容でした。三菱ケミカルグループでは、満50歳以上かつ勤続3年以上の管理職、一般社員、再雇用社員を対象に「ネクストステージ支援プログラム」を実施し、1,273人が応募しました。注目すべきは、製造に従事する社員は原則として対象から除外されていた点です。つまり、現場の人手は必要である一方、管理職層や間接部門、年齢構成、将来の事業構造との関係では見直しが必要だと判断されているわけです。同社はこの施策に伴う構造改革費用を約320億円と見込み、応募人数は年間約160億円の労務費減少に相当すると公表しています。
これらの事例から見えるのは、「人手不足なのに人を減らす」という矛盾のように見える現象の正体です。企業は、すべての人を一律に減らしたいわけではありません。足りないのは、成長分野を担える人材、AIやDXを使って業務を変えられる人材、現場を動かせる人材、若手を育てられる管理職です。一方で、従来型の業務、重くなりすぎた管理職層、将来性の乏しい部門、AIで効率化できる定型業務については、今まで通りの人員を抱え続けることが難しくなっています。したがって、黒字リストラは単なる「人件費削減」ではありません。より正確にいえば、「人材ポートフォリオの組み替え」です。会社にとって必要な人材の定義が変わり、必要な職種、必要なスキル、必要な年齢構成、必要な管理職像が変わっている。その変化に、従来の長期雇用・年功型処遇・ポスト固定型の組織が追いつかなくなっているのです。
希望退職で優秀な人から辞めていく本当の理由
希望退職の難しさは、会社が辞めてほしい人を正確に選んで辞めさせる制度ではないという点にあります。会社が制度の対象範囲を決めることはできますが、最終的に応募するかどうかを決めるのは従業員本人です。ここに、希望退職特有の大きなリスクがあります。この問題は、研究上も「逆選択」として指摘されています。都留康氏の「希望退職と逆選択」では、機械関連メーカーA社が実施した2回の希望退職募集を分析し、希望退職には、会社が辞めてほしい人だけでなく、成績優秀者も流出する現象が伴うことが示されています。特に第2次雇用調整では、非管理職層の一部で希望退職者の査定点が有意に高く、能力の高い人が流出している可能性があるとされています。これは実務感覚とも一致します。希望退職で先に手を挙げるのは、会社にしがみつく必要がない人です。専門性がある人、転職市場で評価される人、社外の人脈を持っている人、独立や副業の準備をしている人、自分の市場価値を把握している人ほど、割増退職金や再就職支援を「次に進む好機」と捉えます。逆に、会社が本当は退職してほしいと考えている人ほど、社外での選択肢が少なく、希望退職に応じないことがあります。結果として、会社は人件費を削減できたものの、将来の中核人材、現場のキーマン、次世代管理職、優秀な若手・中堅を失ってしまう。これが希望退職の怖さです。
特に現在は、AI活用の遅れも人材流出の要因になっています。全国の会社員・役員1,088名のうち、「勤務先でのAI活用の遅れは転職理由になり得る」と回答した人が35.1%となり、課長・部長層では過半数を占めたとされています。AI活用は、もはや業務効率化だけの問題ではなく、優秀な人材がその会社に将来性を感じるかどうかの判断材料になっています。優秀な人材は、会社の変化をよく見ています。会社の事業方針が曖昧である、AIやDXへの対応が遅い、管理職が新しい仕事を避けている、評価制度が年功的なままである、成果を出しても処遇に反映されない、若手や中堅に将来のポストが見えない。このような状態が続くと、希望退職の募集が出る前から、優秀な人の気持ちは少しずつ会社の外へ向かっています。つまり、希望退職で優秀な人が辞めるのは、希望退職制度だけの問題ではありません。その前から、会社が優秀な人に対して「この会社に残る理由」を十分に示せていなかった結果でもあります。終身雇用の時代には、社員は会社に長く勤めることを前提にし、会社も社員を長く守ることを前提にしていました。その安心感が、組織への帰属意識や団結力につながっていた面があります。しかし、業績がいい大企業でも人員削減を行う時代になり、「大企業だから安心」「正社員だから安泰」という神話は崩れつつあります。解雇規制が強くても、社員が自ら辞めることは止められません。会社が社員を選ぶ時代から、社員も会社を選ぶ時代に変わっているのです。
優秀な人を退職させないために、会社が整えるべき労務管理
希望退職で優秀な人材を流出させないために、会社が最初に行うべきことは、退職金の上乗せ額を決めることではありません。まず必要なのは、今後の会社に本当に必要な人材を明確にすることです。ここでいう必要な人材とは、単に現在の成績が良い人だけではありません。今後伸ばす事業を担える人、顧客との関係を持っている人、現場の技術やノウハウを持っている人、若手を育てられる人、AIやDXを活用して業務を変えられる人、組織の信頼を支えている人です。こうした人材を整理しないまま希望退職を始めると、単なる人数合わせになり、会社にとって本当に必要な人から辞めていく危険があります。次に重要なのは、残ってほしい人材との個別コミュニケーションです。ただ「辞めないでほしい」「期待している」と伝えるだけでは足りません。本人に対して、会社が今後どの事業に力を入れるのか、その中で本人にどのような役割を担ってほしいのか、どのような権限や処遇を用意するのかを具体的に伝える必要があります。
優秀な人材は、精神論だけでは残りません。「あなたには今後この事業を任せたい」「AI活用を前提に業務設計を担ってほしい」「管理職とは別に専門職として処遇するルートを作る」「若手育成を正式に評価項目に入れる」といった形で、会社の方針、本人の役割、評価・処遇がつながって初めて、会社に残る理由が生まれます。また、評価制度と賃金制度の見直しも不可欠です。優秀な人が辞める会社では、多くの場合、仕事の価値と処遇がずれています。成果を出している人とそうでない人の差が小さい。新しい仕事に挑戦する人ほど負担が増える。AIや業務改善に取り組んでも評価されない。管理職にならなければ賃金が上がらない。こうした状態が続けば、優秀な人ほど「外に出た方が正当に評価される」と考えます。特にAI時代には、評価項目も変える必要があります。単に与えられた仕事を正確にこなすだけでなく、業務を改善する力、デジタルツールを活用する力、属人化を解消する力、後輩に教える力、顧客への価値提供を高める力を評価する仕組みが必要です。AIを導入しても、それを使える社員を評価せず、従来型の年功評価を続けていれば、優秀な人材は会社の本気度を疑います。さらに、希望退職や人員整理を行う場合には、残る社員への説明を軽視してはいけません。退職する人への条件や再就職支援はもちろん重要ですが、会社の将来を左右するのは残った社員です。なぜ希望退職を行うのか、会社は今後どこへ向かうのか、どの事業に投資するのか、人員減少後の業務負担をどう調整するのか、評価や賃金制度をどう見直すのか。この説明が不足すると、残る社員の間に不安と不信感が広がります。
希望退職後に最も危険なのは、退職募集が終わった後に、さらに自己都合退職が続くことです。優秀な人が辞めたことで残った社員の負担が増え、現場のノウハウが失われ、若手を育てる人がいなくなり、会社への信頼が低下する。この状態になると、短期的には人件費を削減できても、中長期的には組織力を失います。黒字リストラの時代に必要な労務管理は、人を減らす技術ではありません。会社にとって本当に必要な人材が、この会社で働き続けたいと思える理由を作ることです。人手不足の時代に本当に怖いのは、採用できないことだけではありません。会社が残ってほしいと思っている人から、先に辞めていくことです。終身雇用の安心感が薄れ、AIによって仕事の中身が変わり、社員が自分の市場価値を意識する時代においては、会社は「社員は残るもの」という前提を捨てる必要があります。これからの企業に求められるのは、事業方針を明確にし、必要な人材を定義し、公平な評価制度と納得感のある処遇を整え、AI時代に対応した教育訓練とキャリア形成の機会を示すことです。希望退職を行うかどうかにかかわらず、優秀な人材から選ばれ続ける会社でなければ、人手不足の時代を乗り切ることはできません。
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