
「従業員退職型倒産」という表現がつくる誤解
帝国データバンクの発表によれば、2025年に判明した人手不足倒産427件のうち、「従業員退職型」と分類された倒産が124件となり、過去最多を大幅に更新したと報じられています。前年の90件から37.8%増加し、初めて年間100件を超えたという数字は、確かに衝撃的です。しかし、このニュースで用いられている「従業員退職型倒産」という言葉には、社労士として大きな違和感があります。見出しだけを読めば、まるで「従業員が辞めたことが原因で会社が倒産した」かのような印象を与えますが、労務の現場感覚から見れば、この表現はあまりに表層的です。実態として多いのは、長年にわたり賃金が上がらない、働き方が改善されない、評価制度が機能していないといった経営側の課題が先にあり、その結果として人材が流出し、最終的に事業継続が困難になっているケースです。退職そのものが原因なのではなく、退職はあくまで「経営課題の結果」として表面化しているにすぎません。発表データでは、建設業37件、サービス業29件、製造業21件と業種別の件数が示されています。専門資格を持つ人材の退職が相次ぎ外注に頼らざるを得なくなった結果、コスト増で資金繰りが悪化した事例が多いと分析されていますが、これも冷静に見れば、特定の人材に過度に依存する組織構造や、適正な人件費を織り込めない収益モデルが以前から存在していたという話です。そこに転職市場の活発化という環境変化が重なり、問題が一気に顕在化したにすぎません。
本当に倒産を招いているのは「退職」ではない
同じ帝国データバンクの別調査では、2025年10月時点で正社員の人手不足を感じている企業の割合は51.6%に達しています。建設業や情報サービス業などではその割合がさらに高い水準にあるとされていますが、この数字が示しているのは「人が突然いなくなったから困っている」という話ではありません。魅力の乏しい職場環境では人材確保が極めて難しくなっているという構造的な変化です。現在の日本では最低賃金の継続的な引き上げが続き、転職市場も活況です。厚生労働省の統計でも転職入職率は上昇傾向にあり、働く側が職場を選ぶ時代に完全に移行しています。その中で、価格転嫁や生産性向上に取り組まず、賃金水準を長年据え置いてきた企業ほど、人材を確保できなくなるのは当然の帰結です。ニュースでは「業績悪化で賃上げができない企業が多い」と説明されていますが、この表現もどこか他人事です。賃上げができないほど利益構造が弱い事業モデルのまま経営を続けてきたこと自体が本質的な問題であり、それを放置した結果として人材が離れ、経営が立ち行かなくなっているのです。これは「人手不足による倒産」ではなく、「人件費を払えないビジネスモデルの破綻」と表現する方がよほど実態に近いでしょう。労務の現場では、社員の大量退職が突然発生することはほとんどありません。長時間労働の常態化、評価の不透明さ、将来ビジョンの欠如、賃金の停滞といった問題が長期間放置された末に、最後のシグナルとして退職が起きます。その経緯を十分に検証せずに「従業員が辞めたから倒産した」と語るのは、経営側の責任を曖昧にする危険なストーリーでないでしょうか。
中小企業に問われている本当の課題
いま起きているのは一時的な人手不足ではなく、日本の雇用構造の大きな転換です。かつては多少待遇が悪くても人が集まった時代がありましたが、少子高齢化と労働市場の流動化が進んだ現在、その前提は完全に崩れました。魅力ある処遇と働き方を提示できない企業から順に人材が離れ、採用もできず、事業が縮小し、最終的に市場から退場していくという淘汰が本格化しています。私たち社労士が多くの中小企業を支援する中で明確に感じるのは、人事制度を整備し、賃金体系を見直し、働き方改革に真剣に取り組んできた企業ほど人材の定着率が高く、安定した経営を続けているという事実です。逆に、「人がいない」「辞めてしまう」と嘆くだけで具体策を講じない企業ほど、離職率が高く経営も不安定になっています。これは単なる印象論ではなく、日々の実務から見える明確な傾向です。今回の124件という数字は、「従業員が辞めたから会社が潰れた」ことを示すデータではありません。人材に投資せず、待遇改善や働き方改革を先送りしてきた企業が、時代の変化に適応できず淘汰され始めているという現実を映し出しているだけです。「従業員退職型倒産」という言葉は、その本質を覆い隠してしまいます。このニュースを、他人事として消費するのか、自社の賃金水準や人事制度、働き方を見直す契機にできるのか。中小企業の経営者には、まさにその姿勢が問われています。退職は原因ではなく結果であり、その結果を生み出したのは紛れもなく経営のあり方なのではないでしょうか。



